24歳女、どう生きれば。

1993年生まれが普段考えていることを、独断と偏見で書いてます。

生きにくそうな大人たち

24歳の夏、入院をしました。

人生初の手術と入院。

地元の大きな病院は県内でも有数の名病院。

予約して行ったものの待たされること1時間……。

 

その間の出来事です。

 

待合席から少し離れた広間に机があったので

そこで勉強して時間を潰そうと思い

円卓を囲んで相席。

私の右隣には60代くらいのおばさん。

私の左隣には70代半ばくらいのおばあさん。

この2人が生きにくそうな大人たち。

 

なんでも、右隣さんは甲状腺の検査待ち。

左隣さんは旦那さんの内臓(忘れた)の検査待ち。

私はというと、風邪をひきやすいから

原因である扁桃腺を取るための入院予約と検査なので、気楽なもんである。

 

2人ともド素人で病気のことなんか何も知らんくせに

まるで自分の方が悪い病気であるかのように相手の言葉の上をいこうとする。

 

「私の病気はこうこうで〜」

「私はこうなんです」

「あー、私のはこうだから(そちらの病気より)大変で〜」

 

私がなぜこんなくだらない言葉に反応したかというと

私の母親の日記にも似たような人が登場したからだ。

 

母親の日記は、キャンパスノートに書かれてて

小学生だった私が学校で使う新しいノートを探している時に

偶然見つけてしまったものである。

 

日記は、私の死んだ方の姉の症状とか

病院で出会った人のことが書かれており

小児科病棟だろうから

姉の病室にいる大人たちは全員元気なのだ。

元気な女(お母さん達)が集まるとよく喋るよね。

そして、子どものお母さん達は前述の生きにくそうな人のような話をしていたらしい。

内容としては、私のお母さんは、そんな子どものお母さん達の

「自分の子の方が大変な病気」自慢を

変だと思っていた事だった。

そりゃそうだ。病気なんて無ければ無いほうが良い。

 

子どものお母さん達が何故そんな発言をするかはわかる。

 

決して自分の子どもの方が早く死んでほしいわけじゃない。

ただ、

「自分の方が可哀想だ」

「自分の方がこの子のために頑張っている」

その自慢と、

「頑張ってるね」

「可哀想だね」

と言われたいがための発言なのだ。

 

頑張ってるのも、可哀想なのもてめぇじゃなくて、てめぇの子どもだろうが!!!

 

というのが母の心の声だった。

こんなに口は悪くないところが、私と母の違うところだけれど。

 

自己評価の本を今読んでいるのだけれど

その本から引用すると

こうやって頑張っていると思われたい人たちは

「自己評価が低い人」か「自己評価が高くてもろい人」であって

本当に自己評価が高い人ではない。

 

日本人は自己評価や自己肯定感、自尊心など

いろいろなものが低かったり、もろかったりすると言われている。

これはプライドとは違うので

己の中で評価が高ければ他人に何かを言われても

評価が揺らぐことはないので

上がることも下がることもない。

プライドのように傷つけられることはない。

けれど、前述した人々は他人からの評価で

上げてほしい人たちなのだ。

だからいつまでだっても本当の自己評価は上がらない。

自己評価は低いのにプライドは高い。

そんな大人を何人も見てきた。

年下は本当に疲れる。

本人も絶対疲れている。

だって常に他人から評価がないと自分を肯定できないのだから。

 

生きにくそうな大人たちを見て、

更にはそんな本を読んでみて思う、

「そんな大人にはなりたくない」。

 

これからもそういった心理学の本を読んで

自己分析を常に行うことで

生きにくい大人にはならないようにしていく。

それが今後の課題であり

私の人生のひとつの軸である。